ふと、胸を突く衝動に月夜は我に返り教官が渡してくれたペットボトルを取り出した。
「……とりあえず、水を汲むぞ」
「うん」
 夕香に呼びかける声があった。その声は先ほどの水神でどうしてあそこまで寒さに弱い
かを教えてくれた。そしてその原因を解いてくれた。理由は月夜だけに加護を与えるのは
不平だろうという思いだった。ふと思ってしまった。神とはこんなにも気まぐれなのかと。
ここまで気まぐれで治してくれる。だが、その気まぐれで命を失う人がいる。水神は少し
恐いなと思い怒らせないようにしようと肝に銘じた。
「何ボーとしてる?」
 月夜を見ると蒼い顔をしていた。その両手には水が入ったペットボトルが握られている。
そのペットボトルのうち一つをひったくると首筋に手を当てた。
「なにすんだよ」
 すぐ振り払われたが触れたぬくもりは熱く熱があるだろうと分かった。
「無理しないでね」
 釘をさすと月夜は薄く笑って肩をすくめた。出来るかなという所か。夕香は深く溜め息
を吐いて平手打ちをした。
「ムカデの毒、危険なんでしょ? じゃあ」
「知るかよ。病人に、そんなこと……」
 月夜の体がゆっくり傾いだ。それを両手で受け止めようとしたがペットボトルを持って
いることに気付いてそのまま押し倒された。夕香に覆いかぶさった月夜の体は熱く冷や汗
で湿っていた。冷静にその下から退くとその体を仰向けにして背負い投げの要領で背負っ
た。
 重いかと思ったがあまり重くなく足を引き摺るかと思ったのにもかかわらず引き摺らな
かった。あまり気にしていなかったが月夜と自分は同じぐらいか月夜が少し大きいほうな
のかと思ってしまった。
 そして月夜を背負ってペットボトルを持って川を下っていった。いつ、あのムカデが出
てくるか分からない。それが恐怖だった。月夜を守れるか。
 その不安が具現してしまった。身の毛がよだつ大きさのムカデが三匹出てきた。そして
こちらに向かう。いくら重くないとは言えども背負いながら飛び退る事はできない。逃げ
る場はないかと辺りを見回した。
 いきなり背が軽くなった。月夜は何も言わずに夕香の肩を引いて自分の後ろに隠すと見
回した。
「平気だ」
 何を言おうとしたか分かった月夜は先手を打った。夕香はその言葉に押し黙りそろそろ
と後退した。月夜と組んでから月夜の背ばかり見ている気がする。
「後ろから来たみたい」
 後ろの気配を呼んで夕香は月夜に背を預けた。背丈はあまり変わらない。五センチ変わ
っているかどうかだ。
「後ろの連中頼む」
 月夜も夕香に背を預けてくれた。背を預けるということは信用しているという意味合い
の事だ。夕香は少し嬉しくなって刃を取り出した。後ろから来たのは五匹ほどの人に化け
た妖狐だった。皆、五つの尾を持っている。天狐の一歩手前ではない。まだ正を受けて五
百年しか経ってないのだ。ならばいい。夕香は構えると相手の攻撃を迎撃して急所を突き
その信用に答えた。
 月夜も負けてはなかった。毒に犯されていながらもそれを感じさせない身のこなしで巨
大ムカデを一度に薙ぎ払うと一匹ずつ丁寧に唐竹割りをした。そして互いに互いが仕留め
た物を見て苦笑した。
「綺麗に半分になったね。これ」
「お前こそ急所突くなんて……」
 月夜に至っては絶句していた。何せ五尾の狐は皆とある急所の場所を押さえて地面を転
がっていた。男として一番痛いところを突かれてしまったこの狐たちに同情すると同時に
夕香は最も怒らせてならないなと思ったのであった。
 ふいに、いやな脈動が月夜の中を荒れ狂う。月夜はそれをかすかに顔をゆがませて息を
飲んで耐える。毒が自身の霊力の流れを狂わせているそんな感じだ。とにかく苦しい。思
わず膝を突いてしまった。息が乱れ、視界がぶれる。また、その脈動が胸を貫く。弓形に
体を反らし上げそうになった叫びを喉の奥に閉じ込める。背に暖かい手を感じた。冷や汗
が額を伝い叫びが聞こえた。
 いつの間に音も聞こえなくなっていたようだ。夕香の呼びかける叫びが聞こえた。大丈
夫だといいたかった。だが、出てくるのはうめきだけで悲鳴を殺すのに精一杯だった。だ
けだった。荒れ狂う痛みの中で一度霊力を遮断した。一瞬で痛みが和らぐ。
「月夜?」
「悪い。大分まわっているようだ」
 胸に手を当てて呼吸を整えて立ち上がって夕香を伴なって歩き始めた。その姿からはま
ったく霊力を感じられない。霊力を止めるということは術者にとって血流を止めるという
ことに等しい。というより、そんな器用な真似できるのは月夜ぐらいしかいないだろう。
「何したの?」
「霊力の流れを一時的に止めた」
「危なくないの?」
 危ない事には変わりないが毒を回すより安全だと答えて夕香の手を引いて走り始めた。
「ちょっと」
「時間が少ない」
 そう答えると力が抜ける足に力を込めて走った。掴んでいた手がいきなりすり抜け代わ
りに隣には胡桃色の毛並みを持つ天狐がいた。
《乗って》
「お前」
《背丈あんま変わんないんだから大して重くないよ。あんたは。無理して死なれちゃこっ
ちが困るのよ》
 そういうと夕香は体勢を下げて月夜を乗せ月夜が乗ったのを確認すると走り出した。さ
すが獣というべきかその速度は自身が走ったときより数倍も早かった。狐の背に体を預け
て月夜はため息をついた。毛並みは整っていて手触りはいい。温かく、熱の為、寒気がし
ている月夜はその体を摺り寄せた。
《平気じゃないじゃん》
 夕香はポツリともらした。悪いと言いかけたがそれすら億劫だった。かろうじて手に力
を込めて振り落とされないようにした。眠らないようにしているだけでも辛かった。夕香
の長いふさふさの尻尾が月夜の体に巻きついた。力が抜けているのを感じられてしまった
らしい。だが、それに感謝しつつ月夜は意識を失った。
 ぱたりと完全に月夜の体から力が失われた。四本あるうち二つの尻尾で落ちないように
月夜の体に巻きつけていたがそれが正解だったらしい。熱い彼の体に自分の尻尾が巻きつ
いている。どうせ毛布か何かだと思っているんでしょうねと思って溜め息を吐いた。杜の
出口が見えた。川を下ると早く杜から出られるらしい。



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